細胞とデータの休眠

本年度から本領域に参加させていただきました、がん研究会がん研究所の斉藤典子です。乳がんの再発に関わるノンコーディングRNA、主にエレノアRNAの研究をしています。エレノアは細胞核内で分子凝縮体様RNAクラウドを形成してゲノムDNAの3次元構造を制御します。臨床検体を用いた研究から、乳がんの晩期再発に関わることがわかってきました。

晩期再発というのは、手術によりがんを摘出して5年以上の長い期間を経て起こる再発、転移のことです。手術時にすでに体内に播種していたがん細胞が、治療や免疫から逃れて長いあいだ増殖せずにじっと潜むことがあり、休眠と呼ばれています。しかし、何かのきっかけで覚醒して増殖を始めて難治性の再発となります。がんは、細胞が制限なく増殖しすぎることが問題であることはよく知られていますが、じっとして増殖しない性質を持ち得ることもまた問題なのです。がんに限ったことではなく、細胞にはもとより、ひとまず休眠することで厳しい環境下を生き抜く、という能力があるのだろうと想像します。

ところで話は変わりますが、意義を見いだせずに論文にもならなかったというデータは世の中に多々あります。私にとっては、Dignam抽出液を使った実験がそのひとつです。Dignam抽出液は、1980年代にR. Roederの研究室で開発されたもので、試験管内転写実験に広く使われ、多くの転写関連因子の同定の基となりました(Dignam, et al. Nucleic Acids Res11:1475-89, doi: 10.1093/nar/11.5.1475.)。かつて私がこの抽出液をDIC顕微鏡で観察したところ不思議な現象を観察しました。細胞から取り出した核から一定の塩濃度で溶出される上清ですから、基本的には何も見えないはずです。しかし目を凝らすと、”液滴“様の粒子が観察されました。何だろうと思いつつ、「試験管内転写」の条件と同様にrNTPを加え、37度30分間インキュベートしたところ、目の前で美しい蜘蛛の巣のような繊維になったのです。

当時は、それ以上踏み込んでこの現象を解析することはなかったのですが、細胞内液-液相分離の様相が明らかになってきた今となってみると、核内RNAやタンパク質による非ドメイン型バイオポリマーを反映しているものかもしれないとも思えます。このDignam抽出液の実験はまぼろしだったかもしれず、現在、休眠中です。永遠の休眠に陥るかもしれませんが、覚醒時期を迎えるときがいつか来るかもしれないと、そっと期待します。

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斉藤典子