7月5日を考える
それでも7月5日は、どこか落ち着かない1日だった。周囲はざわめいていたし、SNSでは妙な熱気が渦巻いていた。まるで、何かが“本当に”起こると人々が信じているかのようだった。この話を最初に聞いたのは、高校生の息子からだったが、SNSではすでに大変な盛り上がりだった。結局のところ、正確にどのような共通見解があったのかすら把握できていないのだが、要するに「7月5日に日本に大災害が起こる」という噂だったようだ。それは、漫画家・たつき諒氏の夢をもとにした作品「私が見た未来」から発したものだそうだ。その影響力は凄まじく、太平洋側の観光地ではその日予約のキャンセルが相次ぎ、観光客数が半分にまで落ち込んだ地域、国際便のキャンセルまであったという。同氏の夢は、これまで2011年の東日本大震災を予言したとされ、そのほかにも数多くの災害を予見したと言われている。そして7月5日が近づくにつれ、SNS上での盛り上がりはどんどん膨らんでいった。そして、あたかもそれに呼応するかのように、鹿児島県トカラ列島では群発地震が多発。それがその日を目がけるように次第に規模を増し、ついには震度6を記録。島民は避難を余儀なくされた。そして私たちは問題の7月5日当日を迎えたのだった。
こうした予言は、私たちが取り組んでいる科学とは対局的な存在だ。今回は気象庁や地震研の研究者が対応に追われた姿が印象的だった。そもそも、彼らはトカラ列島地震に関して記者会見のカメラの前に立っていた。しかし記者から飛んでくる質問は7月5日の予言のことばかりだったのだ。ある研究者は、半ば苛立ちを隠せない様子で「それはデマです!」と言い切った。別の研究者は、太平洋の海底地図を持ち出して、予言された太平洋中央の×印部位にはプレート境界も海底火山も存在せず、そうした大地震や津波が起こりようにない場所であることを熱心に主張していた。それに対する記者の反応は、「それなら、隕石が飛んできたらどうでしょう」だった。要するに、科学者でない多くの人々は、その予言を信じたかっただけなのだ。
こうした予言、透視、サイコキネシスといった超能力、心霊現象、地球外生命、UMAといったものたちは、人類に残された大いなる夢と言えるだろう。一昔前は、それに加えて「生命現象」もこうした夢の一つだったのかもしれない。魂の存在は広く信じられており、生物は死ぬと魂が抜けて体重が軽くなると言われていた。そして、20世紀初めに生命現象を理解しようと参入してきたのが、最先端の量子力学を先導していた物理学者たちであった。かのフランシス・クリックもその流れに乗った一人である。こうして分子生物学が始まったわけだが、その結果、生命現象は、超科学的なものではなく、基本的な物理現象に基づいた複雑な生体高分子の相互作用で説明できることがわかってきた。では、果たして上記の超常現象はどうだろう? 100年後にはこのうちのどれかは実は科学の言葉で理解できる状況になっているのではないだろうか? 歴史上、科学者がこうした超常現象の説明に本気で取り組んだ例がいくつもあるが、こうした超常現象の解明に本気で取り組んだ科学者は、多くの場合、嘲笑の的となり悲劇的な結末を迎えている。
何を隠そう私はこうした超常現象のニュースをよくフォローしている。地球外生命探索のSETI研究所の会員だったこともある。ただ、科学との融合を目指して一線を越えるつもりはない。その一方で、科学が、いつかこれらの現象のいずれかを説明できる日が来るのではないか、そんな期待を常に抱いているのも事実である。例えば、地球外生命については、それが科学のレールに乗りうる一番の候補であることは誰もが認めるところだろう。実際に火星の生命に関する論文が1996年にScience誌に掲載されたり、宇宙からの意図的な信号を受信したというニュースは最近ももたらされた。火星の空に青白く輝く地球を観測できてしまう現在、その期待はさらに高まってくる。
生命科学の世界は、その底知れない複雑さ故に、まだ理解が及んでいない非常識な現象が隠されている宝庫かもしれない。あるいは一度確立された常識が覆される可能性も否定できない。現に「獲得形質の遺伝」は、ラマルク以降、不名誉な学説として定着し、ルイセンコ学説がソ連のプロパガンダに利用され、さらには「サンバガエルの秘密」のような悲劇を生むなどタブー視されていたが、最新の分子生物学によって見直され、現在は一つの遺伝現象としてRNAを介した分子メカニズムが明らかにされつつある。また1960年代、大腸菌とファージを用いて分子生物学の基礎を築いた大科学者でさえ、真核生物の遺伝情報がイントロンによって分断されていることなど想像もできないことだった。そしてこの学変領域もそうした流れの中にある。タンパク質情報を持たないRNAがゲノム情報を席巻する想定はなかったし、全長変性状態のタンパク質が生理活性を持つなど、誰が想像できただろうか。こうしたことをざっくばらんに考えていると、現存するさまざまな常識とは、どこかのタイミングの最新知見を基に打ち立てられた偏った物の見方に過ぎず、それらはいつか覆されるために存在しているという気にすらなってしまう。
さて、超常現象についての造詣の一方で、私自身はこれまで超常現象の体験からは疎遠である。霊的体験も、UFO遭遇体験もないし、ましてや透視や予言の能力は持ち合わせていない。ただ、自分にちょっと気になる“能力”が備わっていることを最近自覚した。数字に色を感じるのだ。これは物心ついた幼少期から備わっていた感覚で、なかでも4、7、11に特に強い色の印象を受ける。少しだけ超能力っぽくて気に入っている。これは「共感覚」と呼ばれるもので、比較的多くの人が持っている感覚であることを知った。人によっては、音に色を感じることもあるそうで、有名な音楽家にはそういう人が多いのだとか。こうした感覚に関係があるのかは定かではないが、私の生活、そしてきっと研究でも、色はとても重要なファクターである。私の中のささやかな“超能力”が最も重要な知的センスの形成に貢献しているように思われる。そしてこの共感覚のメカニズムは科学的に分析可能な現象のように思われる。科学と“まだ科学になりきれないもの”の間には、意外にも豊かな感受性が宿っているのかもしれない。
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