来し方行末~パート1
本領域も、はや発足以来5年目に入ってしまいました。はい。そうです。もう今年度で泣いても笑ってもおしまいです。しくしく。
5年というのは長いようで、確かに20歳から25歳、そして25歳から30歳の間にはそれはまあもう色々なことがあったような気がするのですが、40歳を超えてからはあっという間のような気がしていて、50代折り返し地点まであと一踏ん張り、の齢になると、あ、寝てきた寝てきたシグモイドカーブ、と、ことあるごとに思ったりもします。とはいえ、5年はさておき、10年となると、あっという間というよりは、そんな時代もあったよねと振り返るぐらいの変化はあるはずで「来し方行く末この10年」、というお題で、班員の皆様からの”研究の現場からは以上です”を本ブログでお伝えできればと思ってます。
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学会や研究集会のスタイルは色々で、国内の学会ですと懇親会が最終日の前日の夜、最終日の最後のセッションは物悲しい雰囲気が漂い、なんで私が最後のセッション??と落ち込んでしまうのがありがちなパターンであります。

本文とはあまり関係ありませんが2027年のRNA学会は北大クラーク会館で開催される予定です!
一方、海外の研究集会では最終日に打ち上げじゃー!!二次会じゃー!!と、思い切り盛り上がって翌日の行事はdepartureのみ、というパターンもよくあります。確か10年ぐらい前(もしかしたらもっと前??)、どの研究集会だったか最近忘れっぽくって思い出せないのですが、最終日のbanquetで、10年後の未来予想図アンケートのcompetitionがあって、会場全体、大いに盛り上ったのをよく覚えています。個人的にツボにハマって一番大笑いしたのが、「DSCAMの38,016種類のvariantのcDNAのクローニングが終わっている」という投稿です。いまだに終わったという話は当然聞きませんし、昨今のDNA合成技術の進歩を考えると、今や当たり前すぎてユーモアですらないのかもしれませんが、RNAマニアにとっては椅子から転げ落ちるぐらい大笑いしました。
さて、10年後はどんな世界が待っているのでしょう?10年前は自前で変異マウスを作ったことはなかったし、Gibson AssemblyやSLiCEをつかったseamless cloningはやったことはなかったし(取り入れ遅すぎ)、fresh frozen sectionをliquid N2 & isopentaneで作ると最強ということも知らなかったし、同世代やちょっと上の憧れの先輩と「一日一万歩」の話題でこんなに盛り上がることができるとは思っていなかったし、要は何から何まで想定外だったので、これからも想定外のことばかり、きっとずっと起こり続けるのだろうな、とは思います。

札幌在住の人にしかわからないと思いますが、沖縄の国際通りでこの看板を見た時の衝撃は忘れられません。この五年で最も想定外だったかも??
想定外のことを考えていると色々ワクワクしてくるのですが、その中で一つあえてこんなこと起きるんじゃないかな起きたらいいなさっさと起きちまえ、と思うのは、現状のpublication/peer reviewシステム、そしてそれに基づいた評価システムの崩壊です。いわゆるimpact Factorの功罪についてはもう多方面で語り尽くされていますが、野暮を承知であえて言及すると、論文というのは広くその知見を共有する「手段」であるはずだったのに、それがいつの間にか「目的」になってしまったというのは、多くの人の共通認識であると思います。しかも最近は、かつて基礎研究を支えた名門誌の IF が一桁に落ち込み、逆に “えっ、そこ?” というジャーナルが IF 20 近くをマークしています。IF が数字遊びに過ぎないのは、もはや周知の事実でしょう。
ナノポアが登場したばかりの頃は研究者の間の情報交換は論文だとサイクルは遅すぎて、ちょうどその頃普及してきたbioRxiv上でどんどん最新の知見がやり取りされて技術が高まっていったとも聞きます。bioRxivに出したらもうそれで良い、というのは流石にちょっと違うと思いますが、リバイスに2年3年かけてようやく一流誌に掲載されたというのが美談かどうかもよくわかりません。また、peer reviewの根幹を支える「その分野を熟知している専門家が査読して判断する」という大原則も、昨今では研究分野がますます細分化してきて「分野の専門家」を探すのが困難になりつつある上に、一つの論文に詰め込まれるデータの種類がインフレ化していて、一人の査読者がデータの全てを理解することも難しくなってきています。昨今の人工知能の爆発的な発展を見ていると、論文の価値を人間が判断するという時代はもう過去のものになるのもなりつつある気もしますが、どの雑誌の編集者に聞いてもAI査読の導入には否定的なうえ、そもそもAIが査読するようになった雑誌に今と同じ魅力を感じるかというと、それは違う気もします。
学生時代、高槻のJT生命誌研究館のセミナーに参加した時の懇親会で、「昔はなー、論文なんてなかったんやー。モノローグや。モノローグやったんや」と、おっしゃっていた岡田節人さんのお話を、話の輪には入れず壁際警備員よろしく遠くから聞いていたことがあるのですが、今の論文評価システムというのは別にソクラテスの時代からあったわけではないというのは、今一度思い起こしても良いことなのかもしれません。10年前、某国の大統領が戦争を含む国家の方針を記者会見でなくSNSで表明するなんていう未来を誰が予想したでしょう。ならば10年後、研究成果の発信も評価方法も、まったく別の景色が広がっていても不思議じゃないですよね??
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