虚心坦懐

サイエンスの最大の強みではないかと思うのは、世代を超えて知見を積み重ねる仕組みを作ったことでとてつもない高みにまで到達できるようになった点ではなかろうか。いわゆる巨人の肩に乗るというやつだ。私も先人の知恵を借りて高みに登り、あとに続く人達がより高みに行けるように小さいながらもブロックを一つ一つ積んでいるつもりである。ただ、巨人の肩に乗るとあまりの眺望の良さに、ぼけっとしていると本当は見えていないものまで見えてしまう気になる。

先入観を持ってはいけないというのはサイエンスの基本事項として重々承知しているのだが、それを達成するのはなかなか難しいと、特にクマムシという動物を扱い始めてから痛感させられることが多い。
クマムシは乾眠という完全乾燥に耐える能力を持つのだが、僕が研究を開始した当時、動物の乾燥耐性と言えばトレハロースが最重要という話が主流だったので私もそう思って研究を開始したのだが、調べていくうちにいろいろ辻褄が合わないことが多くなってきてどうもクマムシは話が違うようだということに落ち着いた。それじゃあということで次に重要と思われていたLEAというタンパク質に着目して調べ始めてみると、LEA は確かにクマムシにもあるのだが、どうも似た性質をもつクマムシ固有のタンパク質が圧倒的に多いということになった。また、乾燥耐性の物理的な原理の研究が進み、重要なのはガラス化と言われるようになってきてクマムシ固有の耐性タンパク質もガラス化するとも言われたりしたのが、クマムシの耐性タンパク質はどうやらゲル化するらしいという話になった。まぁ通説が通用しなかったということはクマムシに限らずよくある現象だとも思うが、他の生物種で言われていたことが(比較的根本的なところで)当てはまらないことが多いという印象がクマムシは強い。
ところで、私達が研究に使っているクマムシ種にヨコヅナクマムシという種があり、これは大人になると茶色になるのだが、茶色にならない個体群が見つかって色々調べた結果、とある遺伝子が怪しいということになった。その遺伝子はショウジョウバエの眼の色に関わる超有名な遺伝子と同じファミリーで非常にもっともらしく思われ学会等でもそう発表したこともある。最近、クマムシのゲノム編集が可能になったので、絶対当たると思ってその遺伝子を破壊したのだがそういう表現型は出なかった。振り返るにショウジョウバエの遺伝子の情報に引きずられた影響は否めない。生物種が違えば色々違うのだというのは良くわかっていたつもりだったのだが、虚心坦懐にデータのみに向きあうのが大事だなと改めて思う今日この頃です。