RNAのヒーロー

今回いただいたお題は、ベンチを離れて久しい私にとってはいささかつらいものだった。仕方ないので、実験に対する精神論でも書いてやろうかと思いを巡らしていたところ、「内容にはこだわらなくてよい」という助け舟メールが届いた。そこで、真っ先に頭に浮かんだのは、先日オーストラリアの小規模な学会での心温まる経験だった。ずっと誰かに聞いてほしいと思っていたが、学会の立ち話では切り出しにくい、ましてや盛り上がっている飲み会の席ではさらに難しい。よって、こうした形で日本のRNA研究者に伝えるのが最もふさわしいだろう。

50 Years Shine Dalgarno: The Impact of RNA Science and Innovationというシンポジウムが開催されたのは、6月初旬にシンガポールで開催されたRNA2023のすぐ後であった。真夏のシンガポールからインド洋を越えて降り立ったオーストラリアの首都キャンベラは初冬を迎えていた。会場は、キャンベラの中心にあるオーストラリア国立大学(ANU)のShine Domeという奇抜なモニュメンタルな建造物だった(下写真)。ANUでは、Thomas Priceを中心にRNAに特化した研究センターとしてShine Dalgarno Centerが設立され、この研究センターの設立を記念して、本シンポジウムが企画された。オーストラリアの生命科学政策の中でRNA biologyは1つの柱となっており、この研究センターの設立はそれを象徴するものであるようだ。入口付近ではThomas PriceがTVクルーにインタビューされていたし、明らかに科学者ではない政治家か、大学関係者が一緒に記念写真に収まっていた。

教科書に必ず登場するShine Dalgarno(SD)配列の生みの親は、John ShineとLynn Dalgarnoで、ANUを代表する研究者だ。シンポジウムは、研究センターのローンチングセレモニーに続いて、主役であるShineとDalgarnoが同時に登壇してSD配列発見に関する講演が始まった。私はそれまで知らなかったのだが、Dalgarnoの方がボスで、Shineはその学生だったらしい。現在では、いかにもやり手で流暢に喋るShineに比べて、Dalgarnoの素朴さはどうだろう。こうして2人が同時に登壇して、まるでセリフを話すように交互に講演するスタイルは珍しいものだったが、流暢なShineがひとしきり語り尽くし後に、年老いてもなお少年のようなDalgarnoがボソっと発した一言が会場の雰囲気をがらりと変えてしまうのは印象的だった。聞くところによると、John Shineはその後、エンドロフィン遺伝子のクローニングと組換え体の作成などの重要な研究で名を馳せ、オーストラリア科学アカデミーのVice-presidentやNHMRCのChairを歴任した大物で、このShine Domeも彼の名前を冠したものだった。

休憩を挟んで、話題は真核生物の翻訳開始、特にキャップ構造の発見に移った。日本での認識とは異なり、そこに登場したのは、Suzanne CoreyとJerry Adamsという夫婦だった。この二人も1975年にNature誌に真核生物mRNAの5’末端のキャップ構造を報告したパイオニアなのだ。この組み合わせも先ほどの二人とよく似ている。貫禄の語り手Coreyのトークの合間に発せられる素朴で自由なAdamsの一言が会場を大いに盛り上げた。

Suzanne CoreyとJerry Adams のトークに続いて、キャップ構造の研究に重要な貢献をしたパイオニアとしてGerald BothとGordon Abrahamと二人の研究者が登壇した。この二人の話題の中心は、キャップ構造研究の世界の中心であった米国ニュージャージーのロッシュ研究所のAaron Shatkin研究室での話であった。この二人はShatkin研で様々な重要な発見に貢献したのだった。Shatkin研でのキャップ構造研究の話は、私たちには馴染み深いものに違いない。先日惜しくも他界された古市泰弘さんの壮大なエッセイ集に幾度となく登場したからだ。キャップ構造の発見と言ったら古市と三浦、そしてShatkin、これが日本では常識だった。ところが、このオーストラリア人たちのトークには、一度だけFuruichiという名前が登場したものの、その後触れられないまま話が進行していった。やれやれ、所変われば歴史の解釈も異なるものか、と思っているうちに、トークは後半に差し掛かった。突然、二人が話をやめると、画面に古市さんの顔が大写しになり、あの聞き覚えのある張りのある声が響き渡った。風貌から察するにそれはきっとかなり末期に収録された動画のようだ。私たちが一度は聞いたことのあるキャップ構造の発見についてのフルストーリーが、古市さんらしいジョークを所々に交えた形で展開された。会場は静まり返り、もはやその場は古市さんに完全に支配されていた。動画が終了すると、BothとAbrahamの二人は神妙な面持ちで古市さんの早すぎる死を悼み「Hiroはヒーローだった」と感慨深げに呟いた。そしてそれに続いて、古市夫妻を含めた4組の夫婦が、オーストラリアで再会し、車でアデレードを目指して旅した際のスナップが映し出された。古市さんのエッセイで、この場面を覚えておられる方もいるだろう。あそこに登場した古市さんの同行者は、まさにこのシンポジウムの登壇者たちだったのだ。「残念ながら、重要な一人が欠けてしまいました」と、この上なく寂しそうな言葉でその講演は締め括られた。1970年代、米国のShatkin研で最も興奮に満ちた時代を共に過ごした同僚が50年後に再会し、さらに当時の競争相手だったCoreyとAdams夫妻を含めて、家族ぐるみで一緒に旅行するというのは簡単にできることではなく、こうした長年続いた友情をひしひしと感じた。つまり、このシンポジウムの前半の主役はShine-Dalgarno、そして後半は、オーストラリアの友人たちが古市さんの旅立ちを記念して企画されたものだったのだ。

これまで私は古市さんとは不思議なくらい縁があった。私が米国留学から帰国するきっかけになったJSTさきがけ研究のアドバイザーの一人が古市さんで、RNAのことを理解してくれる唯一の存在だった。その後、私が産総研で独立して、lncRNAの研究に転向するきっかけになったNEDOプロジェクトの評価委員の一人でもあった。私にとっての研究者として最も重要な転換期の研究の経緯をつぶさに見つめていたのが、古市さんであった。しかしながら、古市さんには一度も褒めていただいたことがない。さきがけでもNEDOプロでも周囲の多くの研究をポジティブなコメントでエンカレッジしてくれていた古市さんであったが、私の研究には一度もポジティブコメントをくれなかった。いつしか、私の目標は古市さんからお褒めの言葉をもらうことが目標になったが、結局それは果たされなかった。今思えば、古市さんこそが、私の研究の本質を見抜いておられたのだ。そしてまだそんなことで満足してはいけないと言いたかったのではないか、と気づいた。そうした中でも、私の年賀状で子供が生まれたことを知ると、わざわざ自宅まで電話をくださったことも今となっては心温まる思い出である。

さて、キャンベラでの古市さんの印象的な講演の翌日、自分の講演を終えてロビーでくつろいでいると、Jerry Adamsが近づいてきた。すでに一線から引退して久しい彼だったが、質問は鋭く、特に細胞内相分離の意義について知りたいようだった。ひとしきり話をした後、別れ際に、私は思い切って「Hiro Furuichiは私のアドバイザーでした。昨日のような場を設けていただき感謝しています」とお礼をのべたところ、Jerryは一瞬驚いたようにこちらを見つめると、感慨深げに遠くに視線を移し「Hiroは本当にヒーローだったよ」と深くうなずいたのだった。

追伸:この場面に居合わせたもう一人の日本人、キャンベラ滞在中にお世話になりましたANUの林立平さんにこの場を借りて感謝申し上げます。