ドクターの肖像(慶應生理学・岡野栄之):第一節 米国で変異体と遺伝子の研究 ショウジョウバエとの格闘

 慶應義塾大学医学部生理学教室・岡野研究室、岡野栄之教授についてより深く知って頂くために、彼のこれまでの研究人生(肖像)について、ドキュメンタリー形式のシリーズで綴らせて頂こうと思います。

第一節 米国で変異体と遺伝子の研究 ショウジョウバエとの格闘

 岡野栄之氏は信号を睨みながら車を思い切り走らせた。治安の悪いボルティモアの道で止まると、たちまち車のフロントガラスを拭こうとする人が寄ってくるからだ。帰国する留学生から譲り受けた中古のアメリカ車は信号につかまらず、無事ジョンズ・ホプキンス大学医学部のキャンパスに入った。車を降りて研究室に向かった。研究を始めて以来、瞬く間に数㎏痩せたので体にキレはあった。だが心はずっしりと重かった。

「今日もショウジョウバエとの闘いか……」

 1989年10月、神経細胞研究のため、2年の任期で大阪大学からメリーランド州ボルティモアへ留学した。当初はカリフォルニアの青い空の下で、神経遺伝学の大御所の研究室を希望していたが、
そこでポストが得られず、東海岸のCraig Montell 氏の研究室に来た。Montell 氏は生き物が外界
からの刺激を受け取るタンパク質TRPチャネルを発見した人物だ。彼の研究室は手狭で、そこには
ショウジョウバエの飼育瓶がぎっしりと並んでいた。その数8000匹。やってきたMontell 氏は朝の挨
拶もそこそこに言った。

「どうだい、何か発見はあったかい?」

 そう言われる度に岡野氏は発奮した。ショウジョウバエに二酸化炭素麻酔をかけて、染色体上に転
移因子を挿入して変異体を作る。直径1㎜に満たないショウジョウバエの頭に電極を置いて、エレク
トロレチノグラム(ERG=網膜電図検査)をして、光への応答パターンをチェックするのだ。特異
な脳波パターンが現れるのを待っていた。さらに顕微鏡で突然変異体の背部の毛も観察していた。毛
が消失したり、全体が剛毛であったり、剛毛がまばらにあるものもいた。特異な遺伝的特徴を探し続
けた。それを1日100匹もやっているとくたくたになった。自然と口から愚痴が出た。

「ボルティモアまで来て、なぜこんなことをやってるのだろう……」

 来る日も来る日もショウジョウバエを凝視した。だが数千系統の変異体を実験しても、何も見つからなかった。8000匹を完了するには1日100匹実験しても80日はかかる。2カ月目、体重は10㎏落ちた。

「何とか自前の変異体と遺伝子を取りたい……」

 痩せながらも岡野氏を駆り立てたものは何だったのか。

                          【ドクターズマガジン2021年8月号】より

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